これ本物の「悟り」です。
絶対的な「無」の中に
人が誕生し、
人は不安定を嫌い
相対的な「有」と「無」で分けることにより
すべてを「認識」しようとした。
「有」とは、認識したもの
「無」とは、認識できないもの
分けることとは、分けきれないものを残す作業
これは永遠に終わりのない作業
「そのもの」が全うした姿であるのは
分ける前の状態
分けた途端に「そのもの」は
完全で無くなり、
「そのもの」ではなくなる
「そのもの」は分ける前なので
相対的なものを両方持ち合わせている
私たちも「そのもの」
どこかしらの角度からみて
「私たち」が無価値だと感じても
それは完全な「私たち」の姿ではない
価値がある「私たち」と
無価値な「私たち」が合わさっているのが
常の「私たち」
「私たち」が優れていないと嘆くことはない
「私たち」が優れていないおかげで
優れていられる人たちがいるのだ
山の頂きは何故あるのか?
山の頂上を目指し、価値あると思う人も多いだろう
では、山の下は価値が無いのか?
山の頂上が、山の下に、お前達は無価値だと言い
山の下を排除したら
山の頂上は、ただの平らな地面になる。
これが「有」と「無」の姿であり
合わさって全うな姿であり
分ける前の姿が完全な状態
だとすれば
「私たち」が何かで本気で悩んだり、
劣等感を感じたりするなんて
とても馬鹿らしい。